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まだ、しゃべるんですかぁ〜!?

大藤 晋司 アナウンサー

出身地
茨城県高萩市
入社
2003年4月

大藤 晋司 アナウンサー

出身地
茨城県高萩市
入社
2003年4月

不自由をめぐる空想

40歳を過ぎると、なんとなくではあるが「折り返し地点」という言葉が頭に浮かんでくる。

同時に、今までも何度か思いを巡らしたことはあるが、「もし今と違う人生を歩んでいたら」という仮定の物語をイメージする頻度が、以前よりも多くなった気がする。 

それは、決して今の自分の姿や、これまでの自分の歩みを否定的にとらえたり、後悔の念が大きくなっているという意味ではない。 

これまでの自分、今の自分をあるがままに受け入れた上で、「あのとき、あの選択をしなかったら、どんな人生だったんだろうな」ということを、ゲームのように空想し、単純に楽しんでいるということだ。 

「あの選択」。その内容は無限にあるが、最も重い選択はやはり「職業の選択」だろう。およそ18年、もっとも長い時間、自分についてきた「肩書き」であり、自分という人間のイメージすら決定づけてしまうものであるのだから、「もし、違った選択をしていたら」その人生の変化の度合いたるや尋常ではない。「もし、アナウンサーになっていなかったら」その先には、自分のことであって自分のことではない、全く別の人間の、壮大な物語が描かれることになる。

アナウンサーは言葉を扱う仕事である、とよく表現される。「扱う」というと、仕事場にいくとそれが置いてあって、手に持ったりして何かを作り出すために使う、というもののようにも思えるが、残念ながら「ことば」とは常に自分についてまわる。仕事を離れるときにそこに置いていける存在ではない。いつ、いかなるときでも、人間として生きていく以上、常にそこにあるものであり、常に自分が発し続けるものである以上、その人の「ひととなり」が反映されてしまう。仕事で使われる言い回しを用いるなら「オンとオフの使い分け」などということは許されない。仕事と関係ないところで発するときでも「この言葉は適切なのか、いい日本語なのか、相手に伝わる言葉なのか」という「職業意識」が、条件反射のように頭をよぎるように自分の肉体はプログラミングされている、ようである。「ようである」と推定的な表現なのは、自分では普段そのことを自覚しておらず、世の中の誰でもやっていることでしょ、別に特別なことでもない、という感覚で過ごしているからで、ときどき人から「そんなにこだわるもんなんですか」と指摘されたり、ふと客観的になって自覚したりすると、「ああ、そうなのか」と感じたりしている。 

言葉を「扱う」という立場ではない人からすると、このことは随分厄介で、窮屈に感じることらしい。「別に気をつけなくったっていいじゃないですか。そういう状況でもないし」ということらしい。しかし、こっちは「初期設定」がそうなっていないので、気をつけないことのほうがもどかしくって息苦しいし、罪悪感も覚える。“たくさん(←「大勢」のほうがいい)”の人でにぎわうイベント会場で肩車した子供に「アンパンマン“とか”ばいきんまん“とか”“見れた”?」なんて“私的には”言えないし、もし口にしたら“かなりー(平板アクセントで)”落ち込み“がっつり”反省することになるだろう。 

一方で、こんなこともあった。先日乗った地下鉄車内で、ある有名私立中学の入試問題が書かれた、学習塾の広告を見つけた。問題は「次に挙げる例のうち、日本語の乱れと言われる使い方のものを選び、その理由を答えなさい」というものだった。実際の答えを大真面目に探しながら、ふと思った「日本語の乱れといわれる使い方」…そう、「いわれる」という表現をするほどだから厳密には「乱れだ」と断言はできないのだ。100年後にはそれが「正しい日本語」として認知されているかも知れないのだから。そういう見方からすれば、自分のような思考回路の人間を、「言葉は時代とともに変化するし、そんな変化に柔軟に対応するのも、言葉を扱う仕事の人間なら取り組むことだろう。それなのに、いちいち小さなことに目くじら立てて、あれは乱れてる、これは正しい使い方じゃないと騒ぎ立てて、なんと不自由で、こころの狭いヤツなんだ」と、眉をひそめたくなる人も、世の中にはいるのではないか。そんな思いが頭をよぎった。 

残念ながら、そう思われたら、返す言葉は見つからない。不自由で、面倒くさく、相手に窮屈な思いをさせてしまう存在なのだろう。 
でも、我々は言葉を「扱う」だけでなく「守る」ことも仕事だと思っている。「打ち破る」人がいて、「守る」人がいて、そのもみ合いの中で、言葉は成熟し、進化していくものであり、文化はそうして発展していくものだと思っている。「打ち破る」側の人からみれば厄介なやつだが、我々は「守る」側に居なければならない職業だと思っている。そして、そのために求められる不自由さからは、逃れたいとは思っていない。きっと、「守る」側の不自由さに、何らかの「快感」を感じているのかも知れない。言葉を守る「責任」などという正義漢ぶったものではない、より感覚的なここちよさが、支配しているのではないだろうか、と感じることがある。 

だから「もし、アナウンサーという仕事を選択していなかったら」という空想をしてみても、言葉を「打ち破る」側にまわっている姿は、いろいろとイメージを巡らすのだが、浮かばない。頭の中でいろんな物語を描いてみるが、そこだけは、今のところは揺らいでいない。きっとそれも、見方によっては不自由な、貧困な想像力なのだろうが、まあ、ここまできてしまったのだから、それもまた仕方ないこと、と思っている。