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2009.12.28
二人の気になる人の去就に重ねて

この時期になると、毎年、記憶を振り絞るようにして

「1年の振り返り」をやっている自分がいる。

誰かに頼まれたわけでもないのに、納得のいくまとめができるまで、

時間を見つけてはやっている自分がいる。

面倒な性分だな、と思いながら、やっている自分がいる。

1年という時間のカタマリを

「いい年」、「悪い年」と分類するのは、ちょっと違うかな、

といつも思っているので、そういう表現はしないで、2009年を総括するなら、

「かがみこんで、足元をみつめていた年」

と思っている。

アナウンサーという自分の仕事を見つめたとき、特にそういう印象がある。

端からみると、「沈んで」いるように見えるのかも知れないが、

一応、自分の中では「より高く跳ぶために、かがみこんだ」と思っている。

とはいえ、足元はよく見えるので、いろんな思索にふけったのも

―ポジティブ、ネガティブ含めて― また事実である。

 

そんな思いを巡らせていたここ数日の間に、

極めて個人的な理由から、

普段から気にしていた二人の去就に相次いで動きがあり、

心中のざわめきが大きくなっている。

 

一人は、松井秀喜選手。

自分が名古屋を離れ、北海道に移り住む上での、

最後の背中を押してくれた…と位置づけている人である。

2002年11月7日、名門・巨人軍からFA宣言をして、

ヤンキースへ移籍する記者会見を行った。

その日が、北海道に行く返事をした日である。

「ともに新たな地へ旅立つ決意をしたのだな」と、勝手に関連づけ、

メジャーでの活躍を気にかけていた。

その人物が、新天地へ移る。

よりこころが騒いだのは、その理由だ。

メジャーに挑戦して7年、ニューヨークという街と、

ヤンキースへの愛着を示し、

日本人では初めてのワールドシリーズMVPに輝いた男は、

西海岸のチームを選んだ。

ヤンキースの補強策では自分の優先順位が低かった。

エンゼルスは、評価は高かったが、提示された金銭的条件は

かなり低かった(らしい)。

FA宣言以来彼が言い続けたのは「いかに自分を必要としてくれるか」。

自分のその言葉に正直な決断を、彼は下した。

 去年9月に手術を受けた左ひざは徐々に回復し、

指名打者専門のような起用ではなく、外野守備につくことにこだわったことが、ヤンキースとの別れの、大きな要因となった。

なぜ守りにこだわったのか。

「指名打者専門、つまり打つだけではどんどん体力が落ちていって、

選手寿命が短くなってしまう。

自分はより長く、野球がやりたい」という思いからだという。

名門球団で十分に実績を残したという思いを上回った

「より長く、野球がやりたい」という思い。

7年前の、自分自身の胸中を、思い起こさせるものだった。

 

もう一人は、中山雅史選手。

1967年生まれの、自分と同い年である。

カズ、井原、そしてゴンと、サッカー界において

この年は「当たり年」である。

Jリーグ開幕=プロ化のスタートの時(93年)、

彼らは26歳、かたや入社3年目。

ワールドカップ初出場の98年、彼らは31歳、かたや入社8年目。

日本サッカー界の重い扉が開いた節目のとき、

彼らはその中心で輝きを放ち、

かたやアナウンサーとして、サッカー実況のジャンルで一人前になりたいと、必死にもがいていた。

同い年の彼らの活躍と、自分のもがきっぷりを、つねにシンクロさせていた。

40歳を越えてからは、尚更であった。

42歳のこのオフ、戦力外通告を受けた彼が選んだ道は、現役続行。

そして新たに選んだのは、J2のコンサドーレ。

先日、札幌での入団会見で発した言葉に、こころ震えた。

 

「現役のサッカー選手であることが、自分にとって一番幸せ。

やめること、あきらめることはいつでもできる。

やったところでぶざまな姿をさらすかもしれないし、あがくかもしれない。

それも僕自身のサッカー人生。

やろうと思ってもやれない人がいる中で、

そういう場を与えてもらったことに感謝している」

 

あれだけ輝いた同い年の人が、「ぶざまな姿をさらし」「あがく」ことを

恐れていない。

「北海道に来たのも何かの縁。一緒に『ぶざまに』『あがき』ましょう」

こころの中で、つぶやいていた。

 

より高く跳ぶために、かがんだ2009年。

来年は、跳ぶ番だ。