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2014.4.25
風に立つライオン

「7年かけて、ようやくつかんだチャンスですから」
長いか、短いか。
7年は受け止める側の状況によって異なる
時間の単位だろう。
ただ、国内のトップリーグでプレーする
現在43歳のバスケットボール選手にとっては
36歳のときから始まったこの7年は
間違いなく、想像を絶する長さだったはずである。
そのチャンスが、手元からすり抜けるか、
わずかな可能性が形となり、現実のものとなるか。
そのときは目前に迫っている。

2007年、北海道に初めて
プロバスケットボールチームが誕生した。
世界的にはサッカーに匹敵するすそ野を持つスポーツでありながら、
この国では、旧態依然とした特有の枠組みに縛られ、
ゆえに、国際競争力も弱く、
ゆえに、競技人口に比例した注目をされることのない、
ゆえに、ときに理不尽に「競技する権利」を奪われることもあった。
そんな中、地方に誕生した、プロのチームは、
まぎれもない「異端児」だった。

そこに、日本歴代でも屈指のシューターが入団した。
世界有数の企業が保有する実業団チームからの移籍。
当時の常識からも、7年たった今の基準で考えても
つり合いの取れない移籍である。
その理由を、彼は至ってシンプルに表現した。
「職業欄に『プロバスケットボール選手』と書きたかったから」

結成当時のかのチームの環境の脆弱さは
実業団時代は、専用の体育館があり、
何不自由なく練習できていた彼にとって
想像を超えていたはずである。
北海道で彼が最初に練習をした場所は
廃校になった高校の体育館。
電気も、水も通っていない。
まとわりつくような不快な蒸し暑さ。
手入れをしていない裏庭から入ってくる虫。
中学生でももっと快適な環境のはずだ。
そんな中で、ボールを追った。

「バスケットボール新リーグの幕開け」という華々しい名のもと、
実情は以前からある、名門といわれる実業団チームひしめくリーグに
前身母体を持たない、ゼロから立ち上げたそのチームは参入した。
勝てなかった。あがいても、あがいても、勝てなかった。
そして結成4年目。運営会社は深刻な経営難に陥り、
選手たちの給料も遅配に。
リーグに対し虚偽の収支決算報告をしたなどの問題から、
会社はリーグから除名処分を受け、
チームは消滅の危機に瀕した。

「北海道のバスケットボールの灯を消してはならない」
彼は自らがオーナーとなり、新たな運営会社を立ち上げ
「選手兼社長」という異色の肩書で、チーム存続を模索した。
当時、41歳。
現役のアスリートであること自体が奇跡といえる年齢の中、
経営の最前線と、コートに立つことを実践した。

奮闘が実り、チームは残った。
正確に言えば、新しいチームが立ち上がった。
希望の灯は、強い風に吹かれて揺らめいたが、
かろうじて灯り続けたのだ。
ただ、勝てないことは、続いた。
独立採算のプロのスポーツチームである以上、
経営の安定は、戦力の充実と直結する。
そこを埋めることは、これまた至難の業だった。

彼が、縁もゆかりもない、
バスケットボールということだけでつながった
北海道に来て7年目。ようやく、勝ち始めた。
快進撃といってもいいほど、勝利を重ねていった。
初めて、追い風というものを感じた。
しかし、シーズン終盤でチームは失速。
プレッシャーなのか、横たわる戦力の差なのか。
プレーオフに進出できる3位から滑り落ち、
その座をかけたライバルチームとの
最後の直接対決2連戦の初戦にも完敗。
2戦目で敗れればシーズンが終わるという土壇場で踏みとどまる。
残すは2試合。
自分たちの2連勝、ライバルの2連敗しか
逆転プレーオフの可能性はない。
希望の灯は、またしても風に大きく揺らいでしまっている。

さだまさしさんの歌に
「風に立つライオン」というものがある。
医師のとしての才覚に恵まれ、
相応の環境でエリートの道を歩んでいた若者が
初志を遂げるべく、アフリカに渡り、
彼の地で、生命の本質を学ぶ、
そんな実話を歌にしたものである。

分野も、ストーリーも、全く異なるものではあるが、
ここまでの道のりを見てきた者として、今はこの言葉が頭に浮かぶ。
百獣の王の如き実績と誇りを持ち、
幾多の灯を消してきた、
どれほど強い逆風が吹こうとも、
凛として立ち続けた
日本バスケット界の伝説的プレーヤー。
今月26、27日、
レバンガ北海道、2013-14レギュラーシーズン最終2連戦に臨む
折茂武彦選手に
バスケットボールの神様も照覧したまえ。