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まだ、しゃべるんですかぁ〜!?

大藤 晋司 アナウンサー

出身地
茨城県高萩市
入社
2003年4月

大藤 晋司 アナウンサー

出身地
茨城県高萩市
入社
2003年4月

道に生きる宿命(さだめ)

「重いですねぇ」「重かったです」
オリンピックの銅メダルを持たせてもらった一般人の感想と
そのメダルを己の力で手にいれた人が
表彰式で初めてかけてもらったときの感想は
当たり前なのかも知れないが、同じだった。

リオデジャネイロオリンピック
柔道女子78キロ超級で銅メダルを獲得した、
札幌出身の山部佳苗選手に
インタビューする機会をいただいた。

山部大藤2ショット②.jpg

オリンピックの表彰台から見える景色ってどんなものでしたか?
とまず聞いてみた。
「今までにないいい景色でした」という感じの
肯定的な答えが返ってくることを想像しての質問だったのだが
山部選手の答えは
「自分より上に立っている人がいるのを見て、
ああ、金メダルじゃなかったんだ、という気持ちだったので
どんな風景だったのかはちょっと(印象にない)…」

山部1ショット.jpg

やっぱりこの人は
「この道」の世界に生きる人だったのだと気づき、
甘い想定をしていた己を恥じた。

たとえ五輪という特別な舞台でも、
いや、五輪だからこそ、
2番以下は「負け」であり、「健闘」とは呼ばない、
それが、
「ニッポンの柔道」に生きる人たちのゆるぎない価値観であり、
彼女もまた、その価値観に中に身を置き、
日常を過ごしているのだということが、
しみじみ伝わってきた。

6歳のときに柔道を始めたときは
「遊びの延長でした」という山部選手。
未来の五輪銅メダリストの初の公式戦は
「3秒で一本負けでした(笑)。
でもそのときは、負けても何とも思わなかった。
いつも一緒にいる友達と試合会場にいられて楽しかったから、
自分の試合の結果なんて、どうでもよかったんです」
転機は、中学2年の時だという。
「全国大会で2位になって、
それまでは高校では柔道続けるかやめるか、
どうしようかなぁ、ぐらいだったのが、
『2番ということはもう少しで1番ということだから、
1番になるまでやったら』と周りに言われて、
『じゃあ、やろう』と。
そこから、『勝負の世界』としての柔道に進んでいって、
今までつながっている感じです。
もしあのとき優勝していたら、
『もういいや』って思って
柔道は続けなかったかもしれないです」

インタ中2ショット②.jpg

楽しいから始めた、
でも1番になれなかったから続けた柔道。
しかしそこからは
「苦しい時間の連続。何度もやめようと思いました」という。
その理由は
「勝ち負けが常についてくる世界なので。
勝たなきゃいけないし、勝ち続けなければいけないから、
柔道の本当の楽しみを失っていたときは
本当に苦しいです」

スポーツには、いろいろな価値観がある。
頂点を目指すことを最優先する、
他者との勝敗を最上とせず、自己実現をつきつめる、
ただ、身体を動かすことが楽しい、
いずれを選んでもいいはずだ。

でも、この道は違う。
日本という国での、競技柔道の価値観は
「勝つこと」を突き詰める。
それは、宿命(さだめ)というべきものなのかも知れない。

その宿命に身を委ねて過ごした、
特に、リオ五輪を目指してきたこの4年の、
心の葛藤は、言葉の端々から
ひしひしと伝わってきた。
それが、ニッポン柔道なのだ。

78キロ超級の五輪代表になれるのはただ一人。
その代表争いはし烈を極め、
山部選手はライバルの後塵を拝し、
常に追う立場。
最後の最後、まさに土壇場で逆転でつかんだ
リオへの切符だった。
ただ、「ここまでが苦しかったから、五輪は楽しみたい」
とはいかないのが、この道の宿命。

五輪で銅メダルを獲得した
素人目には晴れがましい表彰式を
「自分より上に立っている人がいることを
表彰台の段差以上に、
もっと大きな差があると思いました」
と振り返ったのは、
彼女が、「この道の宿命」を知る者だからに、他ならない。

ニッポン柔道という道から
一歩も逸れることなく、
道の真ん中を、ひたむきに歩く。
その姿が伝わったからこそ、
この銅メダルは、尊い。
「重いですねぇ」「重かったです」
かの会話には、そんな深い意味が込められていたと
後からじわじわ、心が動いた。

インタ中メダル持つ②.jpg手の中のメダル.jpg

また一つ、よき学びを得ました。
山部選手、
お忙しい時間を縫って
インタビューに応じていただき、
本当にありがとうございました。

山部大藤2ショット③.jpg