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まだ、しゃべるんですかぁ〜!?

大藤 晋司 アナウンサー

出身地
茨城県高萩市
入社
2003年4月

大藤 晋司 アナウンサー

出身地
茨城県高萩市
入社
2003年4月

「冬のカリスマ」を見つめた日

寒の戻りを覚えた、4月9日の夜。
冬に逆戻りした空気の中で、
かつて、冬が来るたびに
「あの人に少しでも近づきたい、話したい」と切望し、
「冬のカリスマ」と勝手に位置づけていた、
(そう、誠に残念ながら一方的にカリスマとこちらが崇めていて
結局一度もきちんと話すことができなかった)
ある人物を見かけ、
毎年のように、その人が冬枯れの芝生の上に立つ姿を
憧れの目で遠巻きに見ていたときの記憶が蘇った。
場所は、札幌ドームの芝の上。

TVhが中継した
北海道コンサドーレ札幌 対 ファジアーノ岡山戦の
試合前の練習の場に
その人はいた。

布さん.jpg

緊張しながら遠くから慌てて撮ったので
ブレブレでどんな人かわからない...
わかりやすく、Jリーグの選手名鑑でご確認を。

布さん選手名鑑①.jpg
その人の名は
布 啓一郎(ぬの けいいちろう)
サッカー好きの方なら、耳にした名前だろう。
元・市立船橋高校サッカー部監督。
90年代から2000年代初頭に、
高校サッカーの実況をしていた人間にとっては
特別な響きを持つ名前だ。

83年、大学卒業と同時に市立船橋の監督に就任し、
その2年後の85年度に
全国高校サッカー選手権大会に初出場。
以来14度回出場し、
94、96、99、02年と4度全国制覇を果たし
「イチフナ」を、名門へと引き上げた将である。

この時期は、
サッカーの現場に足しげく通い、実況を学び、
冬の大舞台でしゃべることを
人生の大目標に掲げて邁進していた
自分にとって、かけがえのない時期とほぼ一致する。
ゆえに、当時の高校サッカー界のトップブランド「イチフナ」は、
常にその動向を追いかけるべき特別な存在であり、
その将たる布監督は、
カリスマとして自分の胸の中に君臨する人物だった。

ときに、灼熱のインターハイ会場に、
ときに、身体の芯まで冷える冬のグラウンドに、
イチフナの青いユニホームを追いかけに行き、
何とか言葉を交わす機会を伺った。
しかし、残念ながら
全国選手権でイチフナの試合をしゃべることも、
布監督と個別に話をする機会もなく、
高校サッカーの世界から離れることになった。
彼方にそびえる、青き高い山。
いつか登りたいと思いながら、
遠くから、その山の頂を見つめるだけで終わった存在
当時の市立船橋高サッカー部と
布監督に抱いていた感情である。
まったくもって、一方的な感情であったが。

市船の教員であった2000年に
Jリーグの監督をすることができる
日本サッカー協会S級ライセンスを取得、
4度目の選手権優勝を最後に03年に市船を退職後は、
U―16、U―19の日本代表監督、
その後JFAアカデミー福島で
中学高校生の指導をしていたことまでは知っていたが、
出身地でもない岡山のJ2のチームで
監督ではなくコーチをしていることは、
失礼ながら今回初めて知った。
(2015年シーズンから現職)

高校サッカーの指導で頂点を極め、
転じても日本サッカーの育成面の主導的な役割を担った人を
J2のレギュラーシーズンという
「日常」のピッチで見かけて
新鮮な驚きと、不思議な心地よさを覚えた。
その姿が、極めて自然だったから。

「冬のカリスマ」と勝手に思い込み、
どこか神殿の奥に鎮座する像のようなイメージを
これまた勝手に作ってしまっていたけど、
いちサッカーマンとして、
シンプルに選手たちの指導に心血を注ぐ姿が
この人の本質なのだと思えた瞬間、
もう20年近くも前になるが、
自分の若かりし日々の気持ちが蘇った。

とにかく夢中でサッカーという競技を追いかけた、
サッカーに突き離されたくない、
サッカーに見捨てられたくない、
そんな気持ちで毎日食らいついていた日々。
余裕はなかったけど、楽しかった。
同じ時間を過ごすことは2度とないのだろうけど、
あのころの青臭さが、
今の自分を作っているということは、
ちょっとは思っていいのかも。

結局、今回も
遠くからを見つめるだけで
本来の仕事(サブアナ)をすべく、放送席に向かった。
布さん①.jpg

カリスマは、遠きにありて見つめるもの。
この年でもそう思えることは
青臭さの残り火が、まだ残っている証しなのかも知れない。

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