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2018.1. 8
闘将を偲ぶ

星野仙一さんが亡くなられた。

既に数多くの悼む声が世に出ているが、

目にし、耳にするたびに

12年、名古屋で暮らした者として

様々な記憶がよみがえる。

  

96年から01年の2度目の中日監督時代は

ドラゴンズに関わる仕事に

最も深く携わった時期と重なる。

自分にとって、プロ野球の仕事は即ち、

「星野中日」に接することだった。

星野さん①.jpg

   

在任中、目の前で2度、

直接対決で敗れての巨人の優勝を見た。

96年、ナゴヤ球場ラストゲームでの「10.6」決戦は

試合終了の「敗戦実況」担当。

00年は9回表まで4-0でリードしながら

最終回に2本のホームランで逆転サヨナラ負け。

このときは東京ドームでベンチリポート担当だった。

  

00年は長嶋監督の胴上げを見届けたあと、

インタビュールームで一言、

「オリンピック(当時、シドニー五輪の真っ最中)を

邪魔せんでよかったやないか」

と、静かにつぶやいて去っていった。

あのときの、怒りを押し殺した表情は今も忘れられない。

(在任中唯一の優勝となった99年は「留守番」でテレビ観戦だった)

     

グラウンドに姿があるときはいつも緊張感が走り、

背筋を伸ばして取材していた記憶しかない。

その一方、沖縄キャンプで、

恒例の朝の散歩のあとの朝食会で

席を同じくさせていただいたことも思い出深い。

(一番遠くの席だったので話は全く聞こえなかったけど)

  

日本における野球の影響力の大きさ、

そして球界の未来のことを常に考えておられたことは

当時の言葉の端々からも伝わってきて、

「闘将」という表現ではおさまらない

ち密さや大局観を感じる方だった。

  

そんな方が指揮を執るチームを

間近で感じることができたあの時間は

プロ野球の現場とはどんなもので、そこにどう関わればいいのか、

その「原型」を作った時間となった。

現在の自分の「背骨」にあたる部分となっていると感じている。

  

幸運にも、今も野球の仕事に関わることができている今、

あのとき学んだことを

これからの仕事に活かしていかなければならないと思う。

当時の感覚や常識に凝り固まるのではなく、

現在の野球の立ち位置やとりまく環境に見合った意識を持って

関わることも含めて。

それが、得難い経験を与えてくれた

「星野中日」への恩返しでもある。

  

謹んでご冥福をお祈りいたします。

星野さん②.jpg